責任の作法-高階峯緒の場合(p1)

 伊勢物語69段にある斎宮なりける人は古来より恬子内親王(てんし・やすこないしんのう)と解釈され、そして狩の使たる在原業平の逢瀬のとなるわけだが、 伊勢国の国司で斎宮寮の長官を兼務していた高階峯緒の計らいによりその後の逢瀬は叶わなかったというのが国文学上の通説とされている。 一方で日本初期の系図集である尊卑分脈によると、高階峯緒は一夜の契りにより出生したその子を、子の茂範の養子とし不祥事を隠蔽したとされ、その子は高階師尚 であるということが言われている。この不祥事は代々高階氏に伝承されたと言われる。高階峰緒はもとより高階氏は伊勢神宮にはばかり、 以後伊勢神宮に参詣しなかったといわれている。 責任の作法として、高階峰緒をいくつかの視点から考えてみたい。
 高階峰緒は、天武天皇 - 武市皇子 - 長屋王 - 桑田王 — 磯部王 — 石見王 — 高階峯緒 - 高階茂範 - 高階師尚(養子:父は在原業平)と系図上では表記される。 峯緒は855年高階真人姓を与えられ臣籍降下するのだが、負っている家の歴史的背景を壬申の乱にまでさかのぼり、考察の1としたい。
次に伊勢神宮に巫女として奉仕する女性である恬子内親王の一夜の契りと斎宮との関わりを考察の2としたい。
 壬申の乱は天智天皇の崩御後、その子大友の皇子(弘文天皇)に対する大海人皇子(天武天皇)の古代国家最大の内乱であった。西暦672年吉野に出家していた 大海人皇子は吉野を出立し美濃に入り東国の兵を集め、近江朝廷の大友皇子と対峙した。大海人皇子より指揮を委ねられていた高市皇子(たけちのおうじ)は 瀬田橋の戦いに勝利し、大友皇子を死に追いやった。翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。天武天皇である。 武力をもって近江朝廷の大友皇子を打ち破ることにより、天武天皇は兄天智天皇に比し絶大な権力基盤を持った。天武天皇及び持統天皇による古代中央集権国家体 制の幕開けである。大化の改新のクーデターに始まり壬申の乱を経て、ようやく律令制国家日本が誕生する。 壬申の乱とはこのような歴史手評価を与えられている。 藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)により武市皇子の子長屋王は権力闘争のはて、長屋王の変の首謀者として謀殺される。
 高階峰緒は上のような先祖の栄光と挫折を知っている。日本国家を形成した立役者の家系という自負が彼の公的・私的行動を規律していたと私は推察する。のちに 見るように伊勢神宮は国家そのものと同視すべき存在として、彼が敬う先祖の血と何ら変わらぬ守りたいシンボリックな客体として認識されていたと思われる。

竹林通信

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 伊勢神宮には、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)の二つの正宮があり、皇室の氏神とされた。 そして、天武天皇のときに式年造替の制を定めた。また天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願をし、そのお礼として天武天皇の皇女である大伯皇女を斎王とし斎宮の制度化 がなされた。高階峰緒の仕える斎宮もまた先祖によって制度化されたのである。 斎宮は未婚の内親王もしくは女王から亀卜によって定められた。そして巫女として奉仕する、神に仕える斎王は穢れを避け、また仏教も禁忌とし、神事に奉仕する日々を 過ごすことである。恬子内親王の父は文徳天皇、母は更衣・紀静子でもある。859年清和天皇の即位により斎宮に卜定、861年に伊勢に入る。しかし、事件は起きた。
 都で当代随一のプレイボーイ在原業平は恬子以前に、文徳天皇妃高子と入台前に関係があったとされる。高子はともかく恬子は巫女として神に仕える斎王なのだ。 高階峯緒はその子を養育したと伝えられている。男女の秘め事しかも一夜限りの愛は、恬子の悲しい立場の厳しさを物語るのか。越えられないタブーをいとわない恬子の サガを高階峯緒受け入れた。恬子の穢れを知らない一途な純愛を赦した。地位、身分、社会制度といった属性を捨象すれば、在原業平と恬子は個人という属性が残り、 二人の行為は単なる男女の営みに過ぎない。
近代人が個人を認識するのと同様に高階峯緒は恬子の行為をそれ故認容したと私は考える。  一方で高階峯緒は伊勢国の国司で斎宮寮の長官である。しかも斎宮を置いた天武天皇の直系であることは上に見た通りである。神事に奉仕する巫女が国家に抗う行為を なした責任をどう果たすのか、朝廷はもとより先祖に対しての釈明を考えたに相違ない。つまるところ、この問題は国家と個の対立に帰趨する。
 高階峯緒は恬子の行為を国家に対し措いたと私は思う。私(わたくし)が公(おおやけ)に優先する、つまるところ国家と個の対立はアウフヘーベンされる。 しかしながら高階峯緒自身の伊勢神宮に対する思い入れは消えない。以後、伊勢神宮に参詣しないという意思をもって責めを負ったと私は考える。 高階峯緒にとって伊勢神宮は古来祖先が敬い守て来た社、森であった。参詣しないことの辛苦は想像を絶する。余談だがこれより後、高階峯緒は神祇伯に就く。 そして恬子は876年、清和天皇が陽成天皇に譲位したことにより、斎宮を退下する。その後長命だったらしいが、多くの斎宮同様未婚であったであろう。
 シャマニズムにせよ、聖なるものが精霊であるにせよ、得るもののおおいさが存する限りその代償もまた有らねばならない。峯緒はそう考えたと思う。
存在することの感謝とはばかりの想いを私は憶える。故に私もまた峯緒に倣うこととしたい。

恬子は詞を送る。
君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか